Yoshito Sakaguchi

1987年 長崎県 福江市(現五島市)に生まれる
2006年 同市に4校しかない(現在は3校)市立高校を卒業後、愛知県名古屋市のメーカーに就職。
2014年 島の実家に戻り独学で木工旋盤を始め、試行錯誤を重ね、現在に至る。

未熟児で生まれたせいか、はたまた親からの遺伝のせいか。
私は軽度色盲だ。
陶芸をする母を横に木工を始めたのは、土や釉薬にはない木目がよく「見える」からというのも理由の一つかもしれないと今となっては思ったりもする。
幼い頃はミニ四駆やBMX(バイクモトクロス)に夢中になり、学生時代はバレーで汗を流しながらバンドを組んだりもした。
その頃の好きなアーティストといえばBUMP OF CHICKENやGOING STEADYで、下手なりに楽しんでいた。
少ない島の子供たちの中でも目立つようなタイプではなく、4つ歳上の姉が当時は恐かった。
よく、九州の女性は強いと揶揄されるが、あながち間違いではないと私は思う。

高校3年生の時にバレーを辞めてからは、都会に憧れるようになっていった。
それまでのイガグリ頭も学ランも、指定ジャージも、なんならそこいらで当たり前のように行われている野ションも卒業し、おしゃれになりたいと読む雑誌は少年ジャンプからファッション誌へと変わり、高校卒業後に就職した工場を1年半で辞め、アパレル会社に就職した。
憧れだったおしゃれな都会暮らし。ファッションの仕事をして、週末は気の知れた仲間とクラブで飲んだくれる。そんな日常を楽しんでいた。今日、明日のことでいっぱいで、自分の人生のことなど考えていなかった。
どう生きていきたいかなんて、考えたくもなかった。

それでも、下水道設備すら整っていない離島でゆったり生きてきた私の心と身体は次第に疲弊していった。
(同い年の妻は東京生まれ東京育ち。渋谷と青山で青春時代を過ごした生粋のシティーガールの妻からは、名古屋は都会ではないと一蹴されるが。)
そうなるともう、何もかもがうまくいかなくなる。
仕事はもちろん、当時お付き合いしていた女性とも、友人関係も。色んなことが重なり、人を信じることを辞めた。当時、そんな私をえらく心配した母と島外に嫁いだ姉が、幼い甥を連れて様子を見に来てくれた事を今でも鮮明に覚えている。

やりたいことなんてなかった。仲良くしてくれた友人たちと離れることに多少の不安や寂しさはあったものの、とりあえず今を生きるために働く事と、未来の自分の事とを天秤にかけていたのだろう。
2013年11月。8年の名古屋生活を終え、島に戻ってからは完全に鬱になっていた。
3カ月以上は実家で引きこもり生活をしていた。

何もしたくなかった。
自分は能天気でズボラで、図太い性格だと認識していた分、落胆は大きかった。
「駄目な人間」だという付箋を自分自身で貼っていたのがこの頃だ。
しかし、裕福な家庭なわけではない我が家。いつまでも親の脛をかじって生活もしていられず始めたアルバイトをしている中で、たまたま買った某有名ライフスタイル誌に掲載されていた作家物の木のマグカップ(ククサ)が私の生活を一変させた。

「作ってみたい」の一心で、何もわからないところから始まった。
幸い、父が大工仕事をしている関係で、実家には大型の製材機や大工道具は揃っていた。
アルバイトで貯めたお金で2014年の11月、木工旋盤を買った。これは陶芸で言う電動ろくろのような物で、ぐるぐる回っている木の塊に刃物を当てて削り出していく手法だ。こいつはこれを書いている2022年現在も私の大切な相棒で、こいつがないとククサの内側は手彫りということになる。非常にしんどい。
最初は大工道具のノミを当てていた。が、大工道具で器が作れる訳もなく、旋盤の回転方向も逆だったりと長いこと可笑しなことをしていたのは笑い話だ。
無論、初号機は大工ノミで製作した物で、辛うじて「コップか何かのようなもの」という形を留めている。
初心忘れるべからずとして、今も工房にひっそりと、しかし、時折怖い雰囲気で製作中の私を見守っていてくれている。

私が製作にあたり主に使用しているのは、島の間伐材や空き家で埃を被っている家具や柱だ。
誤解を招きたくないので最初にお伝えするが、間伐材=品質の低い木ではないということ。
だが、世間の認識では【間伐材=品質が低い=駄目な木】がほとんどだ。
人工林を育てる上で必須の間引き作業である間伐。もちろん、間伐も様々な方法があって、自然が作る物ですから品質の高い木もそうでない木も生まれる。
私はそれらを自ら引き取り、時には伐採も行い、丸太を板状に製材してから工房で3~5年の間自然乾燥させ、状態を見極めて初めて木取りをし、製品にしていく。
全てを自らで一貫して行なっている木工作家は数多くないが、ズバリこれが私の作る物だということ。

五島にはただ捨てられるだけを待つ間伐材が大量に存在し、台風で倒木してしまうものも然りだと父から聞き、時代にそぐわない・勿体無いと思う反面で、その木々たちに自分を重ねていた。駄目な人間だと自分自身で思い込んでいたあの頃の自分を救うような、そんな気持ちも相まってか作ることに無我夢中だった。wanという屋号も、wood activation(木の活性化)から取ったものだ。
これは今でも変わりなく。大多数が無価値だと付箋を付けるものに対して自分が新たに価値をつけていく。多くの人が美しいと思う磁器のような艶と形を求めて、これからも人々の生活に当たり前に存在している「器」を作っていきたい。そしてその魅力に気付いてもらえる一翼を担えたならば、作家冥利につきる。

結婚は絶対しないと思っていた。したいと思ったこともなかった。
発達障害の妻は、間伐材と同じく世間から駄目の付箋をつけられて生きてきた。
苦しくてもありのままで生きている妻は、全てのことに一所懸命だ。
風のような妻になぜだか強く惹かれた。地球環境に関しても熱心で、日々口を酸っぱくして言われるのは
「目の前にある美しさが当たり前で、永遠だと思って無頓着に、無責任に、汚しまくるのが田舎で生まれ育った人たちだ。」と。
恥ずかしながら私自身が正にその田舎者で、自分達にできる小さな事はなんなのかを教えてくれた。
妻は私の心に良い風を吹き込んでくれた。これは製作にも大いに影響している。
大切なものは目に見えないことを、身を持って教えてくれた妻には感謝してもしきれない。
目に見える、形あるものを作って商いにしている私だが、手に取っていただいた方たちには、その向こう側にある物質的な事以外のものを各々が自由に感じ取っていただけていたらいいな、なんて思ったりして。
これからは夫婦二人三脚。この美しく静かな島で、穏やかに暮らしながら・・・。